ディランは良い、何が良いのか分からないくらい。
詩の向こうから何かが立ち上がってくる。
色々な捉え方が出来てその内に自分のことを歌っている曲の様に思えてくる。
I shall be released という曲がある。
ディラン自身よりもザ・バンドのバージョンのが先にお披露目されて代表的な曲となっている。
バンド以外にも沢山のアーティストがカバーしているし日本人も沢山翻訳して歌われたりしている。
素晴らしいものが多いのだけど、どうしてこの曲が色んなアーティストに歌い継がれているのか今までよく分からなかった。
サビに当たる部分の歌詞はこんな感じだ。
光が輝き出すのが見える / 西から東へと沈む / いつの日か いつの日か / 私は解放されるだろう
太陽は東から昇るし、西へ沈む。何から解放されるのだろう。
それ以外の部分もなかなか整合性が取りにくい。
人はなんであれ代わりがきくと言う / 全ての距離は近くないと言う / だから私は覚えている / 私をここへ置いた全ての人たちの顔を
みんな守られる必要があると言う / みんな落ちぶれてしまうのだから / だけど自分の反射を見た / 高い壁の上に
この孤独な人々の中で / 自分は無実だと言う人がいる / 一日中その人の叫ぶ声を聞いた / 怒り、とても大きな声で泣いていた
なんの歌なのだろう。と思っていた。ずっと。
翻訳し日本語で歌うためにどうしたらいいのだろうと考えていた。
英語はどうしても英語的で説明が多くなるし、日本語は説明をするのに適してない。間引くよりほかない。
だから俳句が古くに生まれて今日まで残っているのは日本語的だからなんだろうなあ。
俳句をそのまま英語にしても、なんの風情も生まれない。
英語をそのまま日本語にしても、ただの説明になってしまう様に。
何かを立ち上がらせようとしていたら、これは逆境に立ち向かう歌なんじゃないかという気がしてきた。
それは俺が今なかなか辛い気持ちだからという事が大きいんだろうけど。
冒頭に書いた通り、ディランの歌は自分のことを歌っていると解釈出来る様になっている。
常識を覆して太陽が西から昇り東へ沈む様な事があるかもしれない。
「俺は君のことを信じているよ」とディランは静かに歌いかけてくれる様に感じるのだ。
それがきっと俺がディランを好きな理由だと思う。
落ち込み、不安と背中合わせで、それでも前に向かおうとしている人にかけられる言葉はそれ位しかないのだから。
君の代わりはいくらでもいる
やめとけ どうせ上手くは行かないと
心を打ち砕こうとする奴らの顔を忘れちゃいけないよ
言い訳ばかりをしている 誰かを妬んでばかりいる
だけど俺は高い壁の向こうに輝く明日を見つけたんだ
ひとりぼっちで立ち尽くしている
誰にも気付かれなくたって
声を枯らして叫んでいる
俺には君の声が聴こえるよ
太陽は昇り沈んでいく 西から東へと
いつの日か いつの日にか 自由になるのさ
次のライヴは4/28です、奇妙礼太郎さんとの2マンです。弾き語りです。ひえ~。
信じてくれ!